大判例

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東京地方裁判所 昭和35年(合わ)397号 判決

被告人 A

大一五・三・一三生 公務員

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中百日を右本刑に算入する。

押収にかゝるブロバリン罐(十四錠在中)一ヶ(昭和三十五年証第一九九三号の十)はこれを没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

被告人は○○府立○○工業学校卒業後○○の陸軍造兵廠等に工員として働き終戦後は○○鉄道局○○通信区技術係、○○県○○市等での工場経営、工員等の職歴を経たのち、昭和二十七年秋、国家公務員六級職試験に合格し、翌二十八年四月以来○○庁○○第○部に勤務する一方、昭和三十五年三月以来肩書居宅に転居し、爾来同所において昭和二十七年一月婚姻した妻B(当時三十二才)及び同女との間にもうけた長男C(当時七才)長女D(当時三才)次男E(当時八ヶ月)と共に居住していたものであるが、この間昭和二十年九月頃戦災に遭つて、郷里○○県○○郡の養父の疎開先に引きあげていた際、たまたま右養家先の近所に居住して、当時出征中の夫F(現姓G)方の留守を守つていた実姉H方に、しばしば出入りしていたところ、右Hは間もなく癩病に罹かり、昭和二十三年五月十一日早朝療養所に収容される直前自宅で縊死し、被告人もその葬式に列席したこととて、この頃から右病に深刻な恐怖心を抱きはじめていたが、更にその後被告人が右Bと婚姻して○○県○○市に居住していた際、当時またまた右Hと同じ病にとりつかれていた実父Iが昭和二十七年九月二十六日右病を苦にして縊死した事実をも右父死後間もなく知るに至つてからは、被告人の右病に対する恐怖心は一層つのつて、爾来、被告人は右病の罹患を病的な迄におそれはじめていた。

かくするうち、被告人は昭和三十五年八月頃から、明方になると原因不明の腰痛におそわれはじめたので同年九月十日頃虎之門病院の内科で診察をうけ、血沈尿等の検査の結果、別に心配ない旨いわれたものの、その後も依然として腰痛がとれぬところから、同年十月初旬頃再び右病院内科で診察をうけた。然し同科の診断では病名が判明せぬまま、その指示に基いて更に整形外科を訪ねたところ、同科でも病名判明せず、更にその指示によつて泌尿器科の診察をうけたが、そこでも単に「泌尿器に異常はなく、腰痛の原因は泌尿器ではない」といわれたのみで、依然として病原が分らず、痛みも去らぬまゝ、同月十日頃泌尿器科の報告書を持つて再び右病院の整形外科を訪れたところ、同科の医師は被告人の耳に手をあてたりしていたので、神経痛とはどんな病気かと反問すると、「神経痛は病気ではなく病因がほかにあつて現われる症状だ。病原は結核とか『尿風(痛風を誤聴した)』とかだが種々検査してみよう」と言われて、血液を採取されたうえ、一週間後に結果が判ると指示されたが、被告人は右医師の言動から、自分の病原に疑惑を抱きはじめ、その日頃日本橋の書店丸善に赴いて医学大辞典をひもといて癩及び尿風の項をみたところ、尿風の項がないうえに、癩病も稀にしか罹病しない病気であることが分つたところから、或はその別名かも知れぬ『尿風』も辞典に出ていないのではないか耳を診ていたのはそこに癩の特徴でもでているのでは?等種々思い過して焦慮しはじめ、指定された日迄も待てずに、同月十五日(土曜日)午前十時半頃今度こそは、病名も判明すると期待して、勤務先から、前記病院の整形外科に直行した。ところが、担当の医師は、相かわらず病名について確たる返答をせぬばかりか、被告人に対し検査票を渡して内科にいくように指示し、同科において又々血液を採取されたのち、その指示に従つて再び整形外科の待合室で待たされることとなつた。かくて被告人は再三再四に亘る検査に烈しい焦慮の念を抱く一方、律気で凡帳面な反面、小心で前述のとおり、日頃から癩病に対して病的なまでに過敏な性格の持主でもあつたこととて、自分の病気の原因について多大の不安を感じ、神経を嵩ぶらしていたところを、看護婦から再び右整形外科に呼び込まれて医師と対坐したが、右医師がカルテをめくりながら看護婦に向つて何かささやいた言葉を「レプラだつて」と言つたものと誤聴し、更に向き直つた同医師が被告人に病状を尋ねたのち、「もう好いのではないですか」と云い、またまた血液を採取したうえ、翌々週の月曜日に来院するよう指示した。すると被告人は自分が誤聴した前記病名に驚愕するの余り、先日来の疑惑とあいまつて再び病名を確かめる勇気もなく、稍然として役所に戻り、病院での医師や看護婦の言動について、あれこれ思いめぐらしていたが、その結果、軽卒にも右医師の態度や採血の際の看護婦の無雑作な扱い等を思いすごし、自分は癩病だから同人等が見切りをつけ、療養所に強制収容するため無意味に時日を稼いでいるものとひとりぎめにする一方、たまたま手元にあつた国語辞典の広辞苑を開いて自分の病状が神経癩に類似していると考え、ここに全く自分が癩病に犯かされているものと速断誤信して失望し、悶々として帰宅した。かくて同夜被告人は子供等の就寝するのを待つて、妻Bに右事情を打明けたところ、同女は被告人との結婚のさいの身元調査によつて、被告人の身内に癩の罹病者のあることを既に承知していたが、これを覚悟の上被告人の許に嫁したものであつて、しかも結婚以来右の事情を知つているとはそぶりだに被告人に示さず、独りこれを胸に秘めていたこととて、さては被告人も罹病したのかと驚愕して被告人の話に応じ、相談の末、同夜は、一旦は家族全員で療養所に入所できるよう依頼してみることに決めたものの、翌十六日朝重ねて妻と相談するため、C、Dの両児をつれて付近の小学校の運動会に行き、折をみて自分だけ帰宅して、妻と話し合ううち、療養所には矢張り、自分だけで行く外はないが、そうなれば残された家族の肩身が狭いばかりか、既に子供達にも伝染しているかも知れぬ等と思い悩んだ末遂に一家心中を思いたち、同日午後一時頃、志村橋通りの薬局で睡眠薬ブロバリン錠一罐(昭和三十五年証第一九九三号の十)を購入して、その用意をはじめたものの、なお決意をつけかねていたが、同夜午後九時過頃隣家でテレビをみて帰宅した長男Cをはじめ、右子供三人が、同家六畳間で北側を枕にして次男E、長女D、長男Cの順に一列に就寝するのをみすまして、更に右Bと今後の方針について協議を続けた。その際妻Bは、被告人に対してもう一度医師に病名を確かめてはと進言したにもかかわらず、被告人は最早その余地はないと言下にこれを斥けたので、Bも共に死のうと言い出したのをしおに、癩療養所に強制収容されるよりはむしろ、子供三人を殺害して、夫婦共に自殺するに如かずと決意し親戚知己上司等に宛てた遺書九通を右Bともどもしたためたうえ、翌十七日午前零時頃より午前三時頃までの間にわたり、右六畳間において睡眠中のE、C、Dの順に、いずれもその頸部に革製バンド一本(昭和三十五年証第一九九三号の十一)を巻きつけて強く絞め、よつて右三児を順次窒息死させて殺害し、更に自殺のためブロバリン八・九錠と煙草を煮つめた汁を飲んで死に切れずに苦悶している右妻Bから、同日午前四時過頃「先に行つているから早く首を絞めてくれ」と嘱託されるや、同女の頸部に前記バンドを巻きつけてこれを強く絞め、よつて同女を即時その場において窒息させて殺害したものである。

右の事実は、(証拠省略)

を綜合してこれを認める。

(法令の適用)

被告人の判示各所為中、C、D、Eに対する所為は各刑法第百九十九条に、Bに対する所為は同法第二百二条に夫々該当するところ、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるから、右各殺人の罪につきいずれも所定刑中有期懲役刑を選択したうえ、同法第四十七条本文第十条に則り、犯情最も重い長男Cに対する殺人罪の刑に同法第十四条の制限に従い法定の加重を施した刑期範囲内で処断すべきところ、本件の情状について考えてみると、日頃身を持すること律気謹直で、職務に勉励し優秀な公務員として上司同僚からの信頼も厚く、また家庭の父としては深く妻子を愛し、平和で円満な家庭生活を営み近隣の評判も極めて良く善良な市民としてなんら非のうちどころのない被告人が、判示のような事情からその身が癩に犯されているものと固く誤信し一家の将来を案ずる余り生きる希望を失い、思いつめた結果一家同死を決意するに至つた心情はまことにあわれをこえて非惨の極みというほかなく、被告人の苦悩は本人ならでは十分味わいつくせぬものがあろう。しかも、その後権威ある専門医による厳密な診断(鑑定人立川昇作成の鑑定書)の結果被告人はなんら癩に罹患しているものでないことが判明した今日となつてみれば、いわば、被告人の軽卒から妻子の貴重な生命を断つにいたらしめた結果となり、被告人の苦悩も倍加するものといえよう。この運命の悪戯ともいうべき事犯に対し当裁判所も被告人に対し決して同情を惜しむものではない。しかし、被告人はここで冷静に自分の行為を反省してみなければならない。判示のように、犯行直前被告人と妻とが死の相談をしたさい、妻は被告人に対して「もう一度医師の意見をきいてみてはどうか」と進言したにもかかわらず、被告人は「その余地がない」と言下にこれを斥けている。当時被告人は思いつめていたとはいえ妻のその言葉に耳を藉していたならば、かくまで性急に妻もろとも無心に眠むる幼い三つの生命をいたずらに絶つことを避けることができたのである。そして被告人が人の生命の尊いことにもう少し想いをいたし一家の家父として妻子のためにとるべき態度を誤まることがなかつたならばこのような惨事を惹起せずにすんだのである。このことは被告人が当夜犯行直前公私各方面の知人親族に残した九通の遺書の内容が周到な注意と綿密な配慮に溢れている行きとどいたものであることを思うにつけ、どうして妻子のためもう少しばかりの理性を働かすことができなかつたかとくやんでもくやみ足りないほどである。現に被告人は一度は療養所に入所のことを妻と相談しているではないか。もちろん、当時の被告人の思いつめた苦悩は到底はたの第三者の理解をこえた深刻なものであつたろう。しかし、被告人が本件のような方法で余りにも早急に事を解決しようとしたのは、被告人の長所ともいうべき律義で意志の強い性格が同時に短所ともなつてその独断的傾向がかかる、軽卒な行動を採るに至らしめたものと思われる。この点亡くなつた被告人の妻子のためにはもとより、被告人自身のためにも惜しんでも余りある痛恨事である。被告人はやはり本件についての自分の軽卒さについて責任を自覚し、その責任に相応する刑罰を受忍しなければならない。そしてそのことこそが自分の手にかかつて空しく消えた妻子の霊に対する涜罪の途であることを悟らなければならない。そこで刑の量定にあたつては、被告人が、自分が癩に犯されていることを信じたことについては、判示のような特殊な事情があつたこと、その誤信が直接の原因であつて、しかもそれは種々みとめられる単純な誤解や邪推によるものとは異つて、深刻なものであり、自分のとるべき態度についての判断能力を多分に曇らせていたと認められること、(しかし、前記のような遺書の内容を含めての当時の被告人の言動の全体からみれば決して刑法上の責任能力を左右するに足りる程の心神耗弱乃至心神喪失にはあたらない)。右の誤信が被告人にとつてまことに意外な結果を惹起するに至つた行動をとらせたのであるから、本件はもとより故意犯であつて違法、責任性につきもとより過失犯と同列に論ずることができないことは勿論ではあるが特に本件の特殊な性格からみて、重過失致死罪の法定刑をも併せて考慮にいれるのを相当とすること、被告人は犯行直後妻子の後を迫つて自から生命を断つため、鉈で頭部を数回強打して人事不省に陥いり、生死の境を彷徨したが、翌朝近隣の人に発見されて、辛うじてその生命をとりとめ、今日自分の意志によらないで生きながらえ、被告人として法廷に立つ身となつたものであること、及び被告人は現在刑罰に劣らない精神的苦痛をうけていること等、諸般の事情を被告人の利益に参酌するに値いする情状と認める一方、前記のような余りにも性急に事を決していたずらに、妻子の貴重な生命を断つ結果となつた被告人の軽卒さに対する責任の重大性は蔽うべくもないのでこれらすべての情状を参酌して被告人を懲役三年に処することとし、なお同法第二十一条に則り、未決勾留日数中百日を右本刑に算入し、押収にかゝる物件中主文第三項掲記の罐在中のブロバリン十四錠は本件犯行に供せんとしたものであり右罐は、その従物であつていずれも被告人以外の者に属しないから同法第十九条第一項第二号、第二項に則りいずれもこれを没収し、なお訴訟費用については刑事訴訟法第百八十一条第一項に則り、主文第四項掲記の如く全部被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 岸盛一 金隆史 中谷敬吉)

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